昼寝して開けましたです話仁ー.ー
いらっしゃいませ〜〜〜 再生の旅さまーー ありがとう写真日記
なんだかー、しんみりしまーす。お寺さん、好きなわにーーv
両手を寺で合わせてみるとね、願掛けなんかできない鎮魂の感じがしてね、
それが、わにには合うみたいだ差ーー。
底辺で生きる地道さが寺にはある感じだ和仁。
亡くなった人の労苦を愛しんでーー葬儀を手伝う地域の基地に成り得ると思う差。
敬いますーー和尚さん方をーーそれが和仁だもん根。
http://72463743.at.webry.info/
いらっしゃいませ〜〜〜 再生の旅さまーー ありがとう写真日記
なんだかー、しんみりしまーす。お寺さん、好きなわにーーv
両手を寺で合わせてみるとね、願掛けなんかできない鎮魂の感じがしてね、
それが、わにには合うみたいだ差ーー。
底辺で生きる地道さが寺にはある感じだ和仁。
亡くなった人の労苦を愛しんでーー葬儀を手伝う地域の基地に成り得ると思う差。
敬いますーー和尚さん方をーーそれが和仁だもん根。
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金沢大乗寺逍遥
雪解ける音にも加賀の大乗寺 玉宗 朝方の冷え込みがあった昨日、腰の調子がよくない筈の婦人がお茶のお稽古で金沢へ行きいたいという。大乗寺の日曜坐禅会があるので、私も時間つぶしに一緒に出掛けた。日中は日も差して青空が垣間見えるような天気。それでも郊外となる大乗寺山は鬱蒼とした松や栂の大樹に囲まれて日差しも少なく弱かった。残雪も多く、金沢市内よりは、半月は季節が遅れている感じさえしたものである。 毎週、午後からの日曜坐禅会。もう何回目になるのだろう。私が安居していた昭和50年代からずっと続いているのであろう。先日も記事にさせて戴いたが、現在大乗寺僧堂に安居している雲水さんが少なくなっている現状。心配しながら会場となる坐禅堂横の衆寮の受付へいくと、そこには雲水さんが一人坐っていた。参禅者はいつものように20名を越える多さである。記帳しながらを雲水さんに「今、大衆さん何人?」と尋ねてみた。「二人です」という応えである。二人でも作法通りに日々を過ごしているのであろう彼等を思うと胸が締め付けられる思いだ。 回廊や露地の床板などは清掃が行き届いてしぶく光っている。二人では掃除をするだけで一日が終ってしまうであろう。仏道とは畢竟、自己が自己を担い、自己が自己を変える。一人が世界を担い、一人が世界を変える。それが絵空事だとは思っていないが、僧堂が僧堂であるためには、そのような眞箇の道人を打出するよう機能しなければならない。5人寄れば叢林とも謂われる。初心から一人では仏道たりえない。 実際のところは堂長さんの他に、役寮さんと呼ばれる管理職のお坊さんがその外にも数名常在しており、共に僧堂生活を営み、又、雲水の指導に当たっておられ、修行者の受け入れ態勢に問題はない。全国から多くの若い雲水さん達の上山することを願わずにはいられない。 大乗寺は永平寺三代徹通義价禅師開山の道場であり、弟子に当たられる瑩山禅師が宗門の本山である總持寺の開山となった事実を知らない者はなかろう。また、大乗寺の伽藍は徹通禅師が中国から招来した古来の禅宗様式に則った初回道場でもある。ここで何百年に亘って多くの修行者が精進し、巣立って行ったのである。七堂伽藍は勿論のこと、その柱や石塔、境内の一木一草に至るまで彼等の目に触れ、耳に触れ、身に触れ、心に触れ、迷悟に触れ、生死去来に触れ、弁道に触れてきた魂の歴史がある。 歴史とは畢竟、こころある者にだけ引き継がれていくものだろう。それが宗門の大事であるとの認識が宗門自体にあるのならば、一地方僧堂の現状だということではなく、体制を挙げての支援があってもいいのではなかろうか。私はそう思っている。 「金沢大乗寺逍遥」 雪しづる音にも加賀の大乗寺 禅堂の三和土に残る寒さかな 雲水の面変はりして春寒し 境内をはみ出してゐる藪椿 結界を流れて来る雪解水 その奥に余寒ひかへし伽藍かな 春日射し研ぎ澄まされて地にとどく をらざるがごとく人ゐて春遅々と 春禽の蹴散らしてゆく梢の雪 残雪を山のごとくに積み置きぬ 雪隠に一輪点じ紅椿 一喝に山の眠りの覚めしかと 参道の際まで雪の退きぬ 涅槃の一風景
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