Friday, December 21, 2012

Q3つの本の内容の中和点は?
: 癒着社会で騙されても救済が必要な時にはやってくる!ってことだ〜ω


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いろんな本を紹介しながら、抜粋して載せ続けている持続力と努力に感動しました。


2012年12月12日 (水)

必要な人には必要な時に、必要なだけの導きがある

   今朝の交信は、いつものように午前2時に始まった。

   『身体を形作っている細胞はその一つの役目として、外部から受けた刺激を「感覚」として心に伝える機能を持っています。心は細胞によって感じ取った感覚を「感情」に育て、更にその感情を「欲望」というものに組み替えて、生命としての人体の生存を支えています。

   たとえば、「暑い!」という皮膚から受ける感覚が、「暑苦しい、不愉快」という感情を生み出し、それが「涼しい場所に移動したい」という欲望や望みになります。あるいは、何か匂う、香ばしい匂いだ、何だろう・・という感覚が感情になり、「何があるのか見たい、食べてみたい、触ってみたい・・・」、というように欲望や望みになることで、現世の人々の生命活動が維持されています。

   このように肉体の生命活動の最前線を担う細胞は、周囲から何かを感知した瞬間にそれを感情を生み出す心へと託し、細胞の任務は終わります。次にそれを受け取った心は思いのままに、その感覚をあらゆる感情や欲望へと変えることで表現していきます。しかし多くの場合、そのときに人間の心と身体に悲劇が起きるのです。

   つまり細胞が正確に感知した感覚から、それを受け取る心がどのような感情を生み出すかによっては、極端で過激な感情に突き進むことになり、欲望の淵に飛び込むことになれば、肉体の細胞も否応なく引きずり込まれることになります。

   細胞は本来、神の分身なので苦しむことになります。
   その時、細胞にできる唯一の抵抗があり、それが細胞自身の「機能放棄」です。細胞がその役目を放棄した結果として身体に現れる現象が、細胞の老化であり、さらにこの状態が悪化し進行した状態を病気と呼んでいます。

   この意味において、病気、つまり身体の不具合とは、細胞が心に向けて発信している警告とも言えるものです。あなた方が現世で生きるためには、感覚や感情、そして欲望という望みは必要不可欠なものです。しかしながら人体というものは皮肉に出来ています。つまり、必要としている感情や欲望においてこそバランスを崩しやすく出来ており、それらがあり過ぎても、逆に少な過ぎても人体を亡ぼすことにつながります。

   具体的な例で考えてみましょう。
   幼い子供たちは、誕生してからのそのほとんどの時間を、感覚を味わいながら天真爛漫に生きています。そして思春期の青少年たちは、豊かな感情を享受しながら人生を愉しみます。そして多くの成人した人々は、年齢を重ねるごとに欲望を満たすことに突き進み、人生を苦しみに変えていきます。

   現世では子どもや青年、老人の定義がさまざまありますが、私が肉体を離れ、霊になってから言えるそれらの定義とは、感覚を愉しむ人とは、幼児のように健全な細胞の持ち主であるということです。また豊かな感情を享受して周囲に愛を感じさせ、自分も安らぎと喜びの中に暮らす人は、青春を謳歌している若人です。しかし感覚を愉しむこともできず、感情の享受により人生の充実を実現することもできず、欲望の実現に突っ走る人は老化した人です。

   これらは本人の年齢とはまったく関係がありません。
   またこの三つのレベルは、本人がどのように考えようとも、肉体の表現をしているのは細胞なので、誰が見てもそれは一目瞭然にわかることなのです』

   ――私は彼の説明を、自分の聴覚が取り次いでくれる感覚を受け止めながら、これが「感覚を楽しむことなのかなぁ・・・」と頭をかすめた瞬間、突然、彼の語気が変わった。

   『わたしが今説明したことは、人の生き方の善い、悪いを言ったのではありません。
   あなたは十分わかっていると思いますが、念のために付け加えると、以前にも話しましたが、魂という霊はそれぞれの計画において輪廻転生しています。ですから今現世に生きている人々は、それぞれに目的があって生活しています。したがって、一人ひとりの持つ目的と生き方を第三者があれこれ言う資格や必要はないのです。

   現世で、社会生活や家庭生活において、揉め事や対立が多く起きていることの原因はまさにこのことであり、他人の生き方に干渉しないという一線を超えてしまった結果、第三者が感覚や感情、そして欲望についての「こうあるべき」という自分の画一論を押し付けて、振り回し過ぎていることにあるのです。

   もう一つ、蛇足ながらお話しておきます。
   それは現世での精神世界の探求ブームのことです。多くの人々が先を競って「突進している」光景がありますが、こちらの世界から見ていると、「非常に危ない冷や汗もの」が見え隠れしています。それは軽い気持ちで「ちょっと寄ってみる」とか、好奇心から「あーおもしろかった」というようなものでも、あなた方が肉体を離れて霊になったときその旅路において、その経験のために、思いもよらず「遠回り」を強いられることになる場合があるということです。

   この二つをあなた方の行動の参考にしてください。
   一般的に、追い求めて得た結果というものはすべて間違いと言えます。反対に捨てても捨てても捨てきれず、どうしようもなく残ったものが本当の結果です。特に精神世界の探求においては、必要な人には必要な時に、必要なだけの導きの風が吹くものなのです。現世で古くから伝えられている「触らぬ神に祟りなし」と教えているのも、こうした意味だと思われます。

   魂である霊は細胞を持ってはいません。
   ですから当然、人体的な感覚や感情、欲望といったものは一切ありません。しかしこのことは霊の進化ということにおいては、自分を知るチャンスが極端に少なくなるので、成長や学ぶことが困難という厳しさがあります。現世において肉体を持ちながら学び進歩するとは、結局、生活においてお互いの感覚や感情や欲望がぶつかり合い、悩みながら、その中で自分を知っていくところにあるのです。

   それはたとえば、人を憎んでも憎んでも、「結局それで苦しむのは自分なんだ」ということに気づくとき、また人を疑っても疑っても、苦しむのは自分で「疑われている自分」が見えてきたとき、そのとき始めて自分について、また自分の感情や欲望の扱い方がわかってくるのです。

   現世では、感情や欲望を無くすることは決してできません。
   しかしその扱い方がわかれば、一時的に離れて生活することは可能です。その時に「旅立ち」ができる人は幸せです。なぜなら、もし歪んだ感情や欲望を持ったまま「旅立つ」ことになると、こちらの次元ではその扱い方を学ぶ手段は存在しないからです。そのため、歪んだ絡みついた感情や欲望に永久に苦しまねばならなくなります。

   その結果、そのような魂である霊が現世に出没することで、肉体を持った人々を利用して、自分たちの処理されていない感情や欲望を満たそうとするので、多くの人々に迷惑をかけることになります。それか再び、細胞という肉体を持った人間に生まれることを選びます。しかし歪んだ感情と欲望を持つ状態にある魂である霊は、そのようにして生まれ変わったとしても、「前世の何倍ものハンディ」、つまりより増幅された「業」を背負うことになります。これが一般的に言われている「カルマ」です。

   ですから現世を旅立つときは、「細胞とともに生きる」感情と、整理された欲望であることが一番よいのです。これが心の進歩した姿です。それには、むやみに延命せず、あえて生命を縮めるような行為もせず、「自然の法則」に委ねることでしょう。

   これが、「天寿を全うした」人生と言えるのです。』


            book 「気づき体験記」 佐々木 正禮 著 たま出版

                           抜粋

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